>>日々通信 いまを生きる 第79号 2003年10月17日<<

 1945年の秋、山陽線をずたずたにしたのは9月17日から18日にかけてのの枕崎台風
だった。私が甲府の連隊を除隊になったのは、多分、9月20日だったろう。そして、
二度目に私が東京駅から東海道線で西の方に向かったのは9月24日だったと思う。そ
の日を特定できるのは、9月25日に米軍がはじめて京都に進駐したということがわ
かっているからである。

 多分、前日の夜行列車で東京駅を出発し、25日に京都駅を通過したのだろう。京都
駅ではじめて米軍の兵士を見た。この時、私は停車時間中に米軍の兵士から、ひどく
丁寧な英語を使って煙草を買った記憶がある。ひどく若い兵士だった。武蔵の寮で下
級生から米兵から煙草を買う話を聞いていたので、早速それを実践してみたのだっ
た。

 軍隊に入ってはじめて煙草を吸うようになった私は、このころには吸わずにはいら
れなくなっていた。それで、私は思い切って米兵に話しかけたのだが、すらすらと事
は運んだ。彼らも京都に着いたばかりだったのだろう。

 米兵は日本の軍人とは比較にならないしゃれた服装で、背丈が高くスマートだっ
た。戦争中はもちろん、戦前の日本では、日本人が西洋人と直接接触することはめっ
たになかった。テレヴィもない時代である。西洋人を見たこともないのが日本人の大
部分だったろう。

 私たちは西洋の思想や文化を学んできたが、直接に西洋人と接触することはなかっ
たのである。そこに西洋模倣の日本文化の異様な偏りがあり、米鬼英鬼だのという言
葉が容易に入り込む余地があったわけだが、戦争によって、とりわけ敗戦によって日
本人と白人との直接的な交流が一般化したことになる。

 こうして、ようやく念願のアメリカ煙草は手に入れたが、さて、それをどうやって
吸うかが問題だった。
 実は、私はやはり復員中の下士官と同席していたのだった。彼はしきりに愛国的な
言辞をふりまき、私を辟易させていた。
 煙草は吸いたいが、アメリカ煙草を見たらその男が何というか分からない。場合に
よっては暴力をふるわれるかも知れなかった。
 しかし、いよいよ私が、ようやく手に入れたキャメルを取り出し、彼にすすめる
と、意外に何ということもなく受け取り、平気で吸い始めた。ちょっと拍子抜けの感
じもあったほどである。

 こうして私たちは米軍を受け入れたのであった。加賀乙彦が「帰らざる夏」に書い
たような反乱の動きもなかったわけではないのだろうが、総体としては至極なだらか
に、米軍の占領は行われた。
 あれほど本土決戦の声が高かったのに、これはどうしたことだったろう。天皇の詔
勅はそれほどの力を持ったのだろうか。今のイラクのことを考えると不思議な気がす
るが、この問題については、戦後日本の中心的な問題として、また日本人の心のあり
方の問題としても考える必要があるだろう。

 ところで、私は列車を乗り継いで、山口県の柳井まで行き、そこからから船で下松
というところまで行った。もしかしたら、柳井ではなくて大畠というところかも知れ
ない。
 とにかく、はじめての土地である。その名だけをうっすら覚えているばかりであ
る。柳井という町は、時々汽車で通ったから知っているが、それがどの辺かはよく知
らなかったのである。
 今度、地図で調べてみると、大畠は、宮本百合子が滞在していた島田から直線で19
キロ東にあり、下松は11キロ西にある。私は「播州平野」にも出てくる光の沖合を木
造の運送船で通って行ったわけである。

 広島から柳井線経由で大畠まではまがりなりにも鉄道を乗り継いでくることが出来
たわけだから、特にこの島田の周辺が大変だったのだろう。

 宮本百合子は10月10日ごろ、やはりまだ鉄道が不通で、苦労して島田から東京に向
かっている。
 百合子は夫宮本顕治の応召中の弟が広島で原爆にあい、行方不明になったので、顕
治の実家に赴いていたが、10月10日に政治犯が釈放されると聞き、東京へと向かった
のだった。
 そのことは「播州平野」に書かれているが、今度、この記事を書くために地図を調
べ、私が島田の近くの沖合を船で通ったのだと知った。

 戦時中の山林の過度の伐採で、洪水の被害は想像以上に大きく、山陽線はずたずた
になっていた。鉄道自身も、長い戦争でヨレヨレになっていたし、これを復旧する能
力が、敗戦直後の鉄道当局にはなかったのである。
 それにしても、10月10日ごろまで不通が続いていたとはひどい話である。
 その上、「播州平野」のひろ子は、歩いたり、荷馬車に乗ったりして、山陽線を私
以上に苦労して東上しているようにみえる。これはどういうことだろうか。百合子研
究家の方に聞きたいと思う。

 さて、10月10日に約3000人の政治犯が釈放され、自由戦士出獄歓迎人民大会が開か
れた。
 宮本顕治が網走刑務所から解放されて東京へ帰って来たのは10月16日だった。

 志賀直哉の「灰色の月」は、この10月16日の電車の中で目撃した餓死寸前の少年の
ことをに書いた小説である。「暗澹たる気持のまま渋谷駅で電車を降りた」というの
が末尾の言葉であるが、直哉はそのあとに、「昭和二十年十月十六日の事である」と
日付を書き込んでいる。

 10月15日には渋沢蔵相が来年度は餓死者が一千万になるかもしれないという談話を
発表していた。
「灰色の月」は直哉が山手線の車中で目撃した餓死寸前の少年のことを書いた作品で
ある。
 末尾の「暗澹たる気持」という言葉が強く迫ってくる。日本の前途は「暗澹」とし
て、どうなるかわからなかった。
 この時期、直哉は多喜二のことをしきりに思い出していたようだ。もし、多喜二が
生きていれば、この時、解放されて出獄してきたはずだった。

 当時の私は多喜二のことも治安維持法のことも知らなかった。
 軍隊にいた間は新聞も読まず、ラジオも聞かなかったから、原爆もソ連参戦も、何
も知らなかった。
 復員後も、私の見聞はせまく、何が何かわからず、自分の内部の整理できない感情
をもてあましていたようだ。
 母は病気でやっと生きている状態だったのに、その苦しさを思いやることもせず、
むやみに家族に当たり散らしていたのであったらしい。
 
 戦後の私はこの混乱から出発した。信ずるものは何もなかった。戦争中の一時期か
ら、私は教会からも離れていた。戦後になってはますますキリスト教から離れていっ
た。

 やがて、マルクス主義が私をとらえることになるが、どのような道を通ってそこに
到達したのか。今の私には容易にその道筋をたどることが出来ない。
 ご迷惑かも知れないが、しばらく、それをたどって見たい。

いくつかの原稿を書き、病院通いなどしていたので、通信が遅れてしまった。
 イラクの情勢などを見ると、日本の敗戦当時のことがしきりに思われる。アメリカ
は日本の占領には成功したが、イラクでは失敗した。
 あの戦争では、アメリカは最後まで参戦しなかったのだ。日本が真珠湾攻撃でアメ
リカを戦争に引き込んだ。先制攻撃した日本やドイツは、一時は景気がよかったが、
結局は敗北しなければならなかった。
 今度の戦争でも、先制攻撃したアメリカは一見勝利をおさめたように見えたが、結
局は敗北の道をたどるしかないのである。

 あの戦争と今度の戦争にめぐりあって、戦争についていろいろ考える。日本の未
来、世界の未来、人間というものについて考える。
 私はその考えを書いておきたい。多分、間違いだらけだろうが、いま、この時、私
という人間がこう考えたということを書いておきたい。もしかしたら、それは、若い
人の参考になるかも知れないと思うのである。

 天皇はすこし病気が後戻りしているようだが、私は大変順調に推移しているらし
い。
 市大病院は埋め立て地だが美しい海辺にある。海沿いに高いところを行くシーサイ
ドラインというモノレールで行くのである。
 私の書斎からも海の向こうに房総の山々が見える。
 美しい自然をもうこれ以上破壊しないでほしい。
 一時の利益のために、一度壊してしまえば、もう回復は出来ないのだ。
 未来のために、私たちの孫子のために。
 資本主義というのは、そういう未来の展望を持てないのではないか。すこしでも気
をゆるめれば競争に負けてつぶれてしまうとばかりに、ひたすら今日を生き延びるた
めに、すべてを犠牲にしてかえりみない。
 それが、おそるべき物資の氾濫を作り出したことは事実だろう。
 しかし、気がついてみれば、あまりに多くのものが破壊され、失われた。
 平成太郎さんが漱石の「点頭録」や「現代日本の開化」を、読みやすい形で紹介し
て下さった。
 掲示板1から見てほしいと思う。

 このごろは、平成太郎さんのほかに<なるほど>さんが、しきりに世界の問題を紹
介してくださっている。
 まだまだ投稿者が限定されているのが残念だが、それでも、大分豊かになったと思
う。
<なるほど>さんはどういう方か知らないが、私が問題にしたいことを次々に知らせ
て下さるので感謝している。

 秋は急速に深まった。
 やがて、晴れた日がつづく一年で一番いい季節がくる。
 味わえるうちにこの美しい自然できるだけあじわって、幸福な時間をお過ごしくだ
さい。
素晴らしい町二宮