「中里の戦争遺跡を訪ねる集い」
2006年7月12日

「中里の戦争遺跡を訪ねる集い」が7月12日 戦時下の二宮を記録する会が主催して開かれました。案内と説明を中里の露木さんが行い13人の参加がありました。湘南ケーブルネットワークのTV取材もありました。下は配布された資料
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事故のあった場所

木製の記念碑

供養に線香を

トンネルの入り口

トンネル入り口

トンネルの中から

説明を聞く

TVの取材撮影も

   中里、戦争遺跡のしおり
◎7.12「中里の戦争遺跡を訪ねる集い」配付:
                        戦時下の二宮を記録する会作成

1.現・中里防災コミュニティセンターで起きた不発弾処理事故
【通信2号情報交差点】
[山口手記に、平塚空襲のとき中里に落ちた不発焼夷弾を公会堂にいた工兵が拾い、信管抜きして爆発し、上等兵と公会堂管理人の「守泉さん」が即死、同級生の「長次君」が右眼に負傷とある」・赤羽
【平成17年10月5日:高橋トキエ(74歳)さんの証言】…聞き取り露木泰彦さん
○今では旧中里児童館は中里防災コミュニティ一センタ一として建てかえられていますが、 終戦当時は「堂」と言って隣組の集会場でした。 その下には防空壕もありました。
○堂には皆が懇親のために集まり、管理人の守泉さんと、兵隊の安部さんが住んでいました。その兵隊さんは私の家のお風呂を使いに来たこともありました。
○私が14歳のときでした。
 終戦後(ママ)すぐに兵隊さんが山から爆弾を拾ってきました。
 朝の8時ごろだったので朝の仕度をしていたら、兵隊さんが、「花火をやるから 皆見においで」と大きな声で呼んだので、 私の母(クラさん)が、堂に行くのに石田さんの階段を上っている と、 途中で爆弾がド一ンと破裂しました。 母は左膝を貫通する重傷を負ってしまいました。 そして、 その場から馬車で秦野の日赤病院に運ばれていき、手当てを受けました。ですが、 亡くなるまで膝が曲がる事はなく不自由でした。
○爆弾の近くにいた兵隊さんは急所にあたって亡くなり、管理人さんは胸が蜂の巣のようになりその場に倒れ亡くなりました。 そして、母を見に行った私も爆弾の破片があたってしまいました。
○二宮にはあまり病院がなくて小田原まで行って(小林病院)、米粒位の破片を取り除きました。
 当時、切符は1日何枚と決まっていて、なかなか買えませんでした。
註:右眼に負傷したという、「長次」さんは、既にお亡くなりになりました。
【通信6号】不発弾解体時の爆発事故、発生日判明
 中里公会堂で起きた爆発事故の犠牲者二人、受傷者三人のお名前と状況が分かりました。ただ60年前のことで、その日付は明らかではなかった。知恵者が協力してくれました。即死した管理人・守泉清次さんのお位牌から没年、昭和20年7月20日と調べて戴いた。

2.水島一彦さん宅に墜落した戦闘機と慰霊碑
【露木泰彦さんの聞き取り−太平洋戦争の記憶−中里に戦闘機墜落炎上】
昭和19年7月12日夕刻、岐阜県各務原基地より東京調布飛行場へ移動中の5機編隊のうち隊長機(松島中尉操縦・当時21歳)1機が、中部二宮町中里の河川補修前の打越川左岸竹薮(中里1043番地、水島市蔵氏屋敷)の中に墜落炎上した。落下地点は、現在の秦野県道・中里交差点の東側数10mのところ。松島中尉は、陸軍東部第一〇八部隊帝都防衛戦隊(調布)の所属であった。
 機材は、新開発の「四式戦闘機」であった。何らかの故障で、箱根山を越えたあたりから隊長機から火が噴き出した。
 終戦後も、松島中尉のお弟さんが、毎年供養のため現地を訪れておられたとのこと。
松島中尉の戦友も、高齢のため今年で戦友会を中止されるという。
目撃者・国見大助さん(中里在住・81歳)のおはなし
当時、田植え作業を終了したところ、戦闘機が墜落。空から,半長靴などが落ちてくるし、恐怖で身動きならなかった。
機体は、土中7〜8尺ぐらい潜っていたが、近所の人たちが集まり畑の土をかけて消火に当たった。 機体は、翌日午後連隊が撤収していった。
何か、虫窪(現 大磯町)の方にも墜落したと闘いたことがある。
事故数日後、国見さんは、陸軍東部第62部隊(溝口)へ入隊した。
(※ 太平洋戦争を風化させないためということで、水島さんがお聞きしましたら松島氏は好意をもっておられたとのことでした。 ただし、このお話を公表する場合は、ご遺族の了解を得る必要があると思われます。 平成17年5月8日 中里 水島一彦さん、国見大助さんに露木がお聞きしました。)
【平成18年7月6日:金目アサ(大正8年生まれ)さまの証言】…聞き取り露木泰彦氏○昭和19年7月12日、長男を抱いて中里・中島地区を散歩中、戦闘機が遂落してくるのを目撃。不時着地点を探しているようであった。
○中里薬師堂(現・防災センター)の半鐘が、擂半(スリバン=擂半鐘、近火の知らせに半鐘を続け様に鳴らす)にかわり、お姑さん(60歳)が婦人会の役目で、事故現場でバケツリレーしてお手伝いした。
○夫の金目計三さんは、中里地区仮宿で水車を経営。入隊前は、吾妻山の監視哨に行っていた。事故を聞いて監視哨の人たちが現場に駆けつけ処理に当たった。
○計三氏は、玄米を精白して、監視哨に運んだ。栗の季節には、栗の炊き込みご飯なども作ったという。
【神奈川新聞、05.7.10朝刊の記事より(写真も)】
任務中に飛行機墜落死  現場訪ね 弟が慰霊  二宮・水島さん方
 戦時中、戦闘機を空輸中に墜落死した陸軍少尉で兄の松島只宣きん=当時(22)=の慰霊のため、弟の俊昭さん(73)=東京都世田谷区=が9日、墜落現場となった二宮町中里の水島一彦さん(62)方を訪ねた。俊昭さんらは、水島さんが今年建てた記念碑を前に手を合わせ、平和ヘの思いを新たにした。
只宣さんは1943年に陸軍航空士官学校を卒業し、中国・広東の戦闘機部隊に所属。44年5月、帝都防空戦隊と呼ばれた飛行第二四四戦隊(調布)に転属した。
事故は転属後間もない同年7月12日に起きた。只宣さんは新型戦闘機「四式戦闘機」を岐阜県内の飛行場から調布に空輸する任務に当たっていた。しかし飛行中に機体が故障し、水島さん方の敷地内に墜落して亡くなった。炎に包まれた機体が庭に突き刺さるように墜落したと、水島さんは親から聞いたことがある。
只宣さんは、三人兄弟の末っ子で十歳離れていた俊昭さんをおぶって近所に見せて回るなど、かわいがっていたという。「人間は生きて何かを成し遂げなきゃならん」。俊昭さんは今でも只宣さんの口癖をおぼえている。俊昭さんは「もう二度と戦争は起きてほしくない」との思いから、これまで数回水島さん方を訪ねて慰霊を続けてきた。
水島さんは毎年夏に供養を続けてきたが、戦後六十年という節目を迎えたことし三月、自宅の庭に木製の記念碑を建てた。
この日、記念碑前に線香を供え、只宣きんをしのんだ俊昭さんと水島さんは「戦争のことは忘れられがちだが、風化させてはいけない。平和な世の中が続いてほしい」と語りあっていた。
           (久永隆一)  写真は松島只宣きんの記念碑前で手を合わせる   弟の俊昭さん=二宮町中里の水島さん方

3.間島さんの庭に残る兵士が掘った横穴通路
【 間島さんの開き取り】
1.05年2月25日  2.問島さん宅  3..間島さんの奥様  4. 赤羽興三郎
                同行:高木信幸
 相馬さんの日記に「中里ヘ往診す。途中で野砲の兵隊さんにあう。中里の大学の裏あたりに陣地が出来るらしい」とありますが、との問いに答えて、次の発言があった。
「裏の小屋に兵隊さんの何かを入れさせてあげた」「裏山に、東大農園に続くトンネルがあります」
 帰りしなにトンネルの入り口にご案内願った。高木さんが途中まで中に入って写真撮影をした。
以上

素晴らしい町二宮    戦時下の二宮を記録する会のホームページ